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インドネシア占領時代の背景

1942年から1945年まで日本は現在インドネシアである当時の蘭領インドネシアを占領しました。 そして約10万人ものオランダ人男女、子供が収容所に抑留させられちました。 様々な背景を持つオランダ国籍を持つもの、例えばインドネシア、オランダ、ヨーロッパとの背景や繋がりをもつ人々はインド・ヨーロピアン若しくはインディッシュと呼ばれ彼らは収容所には入れられてはおらず収容所の外部で生活していました。 その数は約20万人にのぼるといわれています。 彼らは収入もなく困難な状況下に置かれていました。 占領地の多くの日本の軍人、軍属は「現地」の女性と関係をもちそこから彼らの間に子供が生まれることになります。  日本が降伏しその日本人たちが日本に引揚げると彼らの関係は殆ど途切れてしまいました。 インドネシア独立戦争に際してオランダ国籍を持つ人々はインドネシアからオランダに移住することになります。 そんな人々の中にはインドネシアで生まれたけれどオランダには住んだことのないものが殆どでした。 彼らの中には日本人の男性との間に子をなしたものもいました。 その数は数百とも言われ、800にも及ぶとみる者もいます。
子供たちの状況

全てではないものの多くの子供たちは自分が日本人の血を引くということは知りませんでした。 けれどこの家族の秘密も遅かれ早かれ表に出ることになります。 それは、例えば彼らのオジさん、オバさんたちの口から伝えられることとなり、子供にとってはそのニュースは殆どショックとしか受け入れられませんでした。 彼らの社会環境にはインドネシア占領時代の嫌な記憶から反日感情が充満していました。 そんな子供たちの多くは風貌に日本的なものを持っています。 そんな子供たちにとっては多少とも、周りとは顔つきが違う自分の問題に突き当たります。 母とはどうなのか、父は誰なのか、そんな自分は何者なのか、他人は自分をどのようにみるのか、母はどのように考えるのか、父は誰なのか、という問題に悩みます。
ジャパン・ルーツ

1983年にシェリー・ランデヘント(Cherie Landegent)とヒデコ・ヒースケ・エーレントレイヒ(Hideko Gieske-Erentreich)の二人が交流グループを立ち上げメディアの全国誌で呼びかけを行いました。 両人は既に訪日の経験があり同様の背景を持つ多くの日本人の血を引く子供たちと知り合いたいたいと希望していました。 彼らは社会に沈殿していた沈黙を破り、オランダ社会で彼らのことが知られるようになり、いくつもの新聞やラジオのインタビューに応えました。 そして最初に5名がその呼びかけに応じました。 しかしオランダ国内ではまだ日本占領時代の犠牲者たちの記憶が生々しく、それが表面化してきており彼らにはまだ期は熟したものとはいえませんでした。 日本人を父とする子供たちが一堂に会することになったのは1989年のことでした。 相互扶助、情報の交換、彼らの抱える問題に対する社会の認知を求め日本で彼らの父親捜しをする方策を探したいと考えていました。 そのようにして1991年2月1日にJIN協会が設立され議長として Ron Hilgers が選出されました。 名称の由来は Japans-Indische Nakomeringen (日本・インディシュの子孫)から採られています。 JINの会というのは、第二次大戦中(後)生まれた、インドネシア系オランダ人を母に、日本人を父に持つ混血児の会です。 当協会はそんな人々にとってアイデンティーを確立し自信を取り戻すという点で非常に大切なものです。

1991年の JIN協会 ベアトリクス・オランダ女王の訪日に際して女王は天皇家を表敬訪問しました。 その時に JIN は女王に宛てて書簡を奏上しました。 そのことが日本で新聞記事となり日本・オランダ・ヨーロッパ系の子孫のことが知られるようになります。 当時ジャワに駐留していた日本人が娘を探しており偶々そんな記事を読みその結果オランダで娘を見つけ出すことになります。 オランダを訪れた父親 Kazuo Sato氏とその娘 Fredaの対面の様子はオランダのテレビで放映され視聴者の間に深い印象を残しました。 これにより協会会員数も増えるようになるとともにSato氏はJINの父親探しに助力の手を差し伸べてくれました。

父親捜し
多くの子供たちは当時は既に50近くに達しており彼らの父親捜しに取り組んでいました。 残念なことに多くの資料は不完全で且ついつも正確なものであるとはいえませんでした。 政府関係からの公式な動きはなく言葉の壁は大きいものでした。 オランダ、日本側双方では1991年以降、追跡調査が開始されてはいたものの結果としては残念なことにゼロでしかありませんでした。 父親を探している者たちにとっては痛ましいものであり、もう遅すぎるのだはないか、というような焦りの感情も湧き、不満と緊張が高まるようになります。 その結果、インドネシア時代の母たちの若い時の写真を集めてポスターにして当時付き合っていた日本人の男性を探しているとの説明を付け日本で配布しようという創造的ではあるけれど一時的なアイデアが採用されJIN協会の中で実行委員会が設立されました。

1994年 協会の分裂
当時の役員は上記の案を支持していたけれど実際には役員会の書記と実行委員会の委員長の間には実行を巡って緊張関係がありました。 役員会と実行委員会の溝を調停する試みは失敗に終わり、役員会議長である Richard は調停委員 Bauke の報告書を受け入れず、それにより会員全員に依る総投票により大多数が役員会の態度に反対の票を投じこれにより敗れた議長と書記は会員であることを止め、新たに自らの協会を立ち上げました。 当協会にとってはこの出来事は大きな打撃となりました。 この分裂がもたらしたものは良好なものではなく今なおその影響は無視できないものがあります。 この点についてはしっかり認識する必要があるものとしてここに記す必要があると思います。 それから20年経過した現在でも再結成の試みが成功していないことに鑑み会員内にはいまだに当時の総投票に依る決定に対して否定的な意見を述べる者もいます。

1995年の進展
新しくなったJIN協会は問題のあった時に調停委員として活動した バウケ・ターレンス(Bauke Talens) を議長、問題にかかわりのなかったヒデコ・ヒースケ・エーレントレイヒ を書記として1995年の秋に再活動を始めました。 新役員には容易い役目ではなかったものの会員ほぼ全員が役員を信任しました。 これにより当協会は同じ目的をもった同志の本来のJIN協会の活動に専念することとなりました。

1995年以降の内山氏による父親捜索活動
JINは実際に活動を始めたけれど旧役員との接触は途絶え、 ヒデコ は書記として1995年の秋に日本に旅行し、九州水巻では十字架記念碑に参拝しそのとき蘭印領に於ける旧オランダ兵捕虜及びその遺族の会(EKNJ)の Dolf Winkler氏と出会います。 11月には大阪で関西蘭印旧軍人会の会合で旧軍人であり元読売新聞記者の当時71歳の内山馨氏に知遇を得、氏の日本人父捜索活動に助力しようとの申し出を受けるることになりました。 京都にある聖フランシスコ教会の サレミンク(Salemink)牧師による仲介、並びに通訳、翻訳への助力をも得ました。 これらの協力によりJINは1996年1月より会員10人ほどの父親捜索活動に入りました。 内山氏は約40人の父親やその家族を探り当てました。 2013年には内山氏は東京のオランダ大使からその労力と功績に対して感謝状を受けました。

日本への活動旅行
内山氏の成果により会員間に日本訪問への希望が募り1997年には ヒデコは、蘭印領における旧オランダ兵捕虜及びその遺族会 (EKNJ) との合同訪日旅行を組織してJIN会員を日本に送りました。 16名の会員は自費で参加し、訪日団とは別の行動を取ることもありました。 EKNJと合同でもたれた日本大使との会合は更に活動の助けになりました。 1998年にはこの日本旅行プログラムは日本政府後援の平和交換プログラムとして資金援助を受けることになります。 これによりJIN会員は毎年日本の父の捜索活動と父の国を知るための旅行が可能になり1998年以降100人以上の会員が日本の土を踏んでいることとなっています。

諸会合
この2,3年に4回の会合をもっています。 それは会の施策と会計を確認する「年次総会」、「家族親睦日」、と「JIN関連親睦日」です。 この会には毎年、会員、その家族、友人、外部団体からのゲストが集い、日本やインドネシアの文化講演会のあと音楽が供されインドネシア料理で締めるという様式の様々な催し物が執り行われます。 「日蘭文化センター(JNCC)」の吉岡女史は例年日本から音楽・舞踊のグループを招待してこれらの会の折にそのイヴェント実行の労を執ってくださいます。

社会的活動
JINの重要な目的は当初から次のものでした。 我々が存在することに対する沈黙を破ること、そして我々の存在に対する社会的認識をえることです。 これらの目的に関しては我々の活動を通じて一定の成果を得ました。 JINは1999年にはインドネシア関係の諸問題を各政府と折衝する団体 (Indisch Platform (I.P.)) に加わりました。 これらの成果により精神的・心理的に助けの要る日本・インドネシア系係累にも光明が見えるようになりました。 また1999年には1945年8月15日追悼協会との協力関係をもつことになりました。 これにより日本の父をもつ子供たちは戦争の歴史の一部分として公に記念・追悼の場で認識を得ることとなりました。

終わりにあたって
これらの日本人の父親を持つ子供たちは今や70歳を超える年齢となっています。 約10人の会員が既に物故しその中には1995年から2005年まで会長だった バウケ・ターレンスがいます。 彼のあとを現在ヒデコ・ヒースケ・エーレントレイヒが引き継いでいます。 約10名ほどの会員はまだ父親とその家族の捜索を続けていますがその活動は現在、歴史家マエカワ・カオリ氏が会長を務めるオランダの機関である 東戦争関連協会(Stichting Oorlogsgetroffennen in de Oost(S.O.O.))の監督下にあります。 活動的JIN会員とそのパートナーは定期的に活動成果の報告を肯定的に受け取っています。 更に加わった動機としては、子供や孫に活動の輪を広げていくことがあります。 これらの会員の子供たち、孫たちには、自分たちの父親、祖父からの愛の恩恵を受けること、過去の戦争に由来する様々な事実について明らかにし、それを知る権利があるものとの認識を等しく共有しています。
2016年 1月 23日