Homu

SAMSUNG

SAMSUNG

SAMSUNG
SAMSUNG
Silfraire Han
13152704_892739344206146_1398695282_n
HAN2

蘭領インドネシアから日本へ移住した日蘭混血児についての Han  Gieske著「愛をもって移住」の短い要約

1945年8月15日の日本降伏以後ジャワに数多くの日本人男性とインドネシア・ヨーロッパ系女性が、彼らの婚姻関係を定め一緒に日本に移りたいとの意思をもってそれにむけて活動した。 本書では日本・オランダ双方の資料により初めてこの間の事情が記され、また日本、英国両政府の反応、英国官庁及び日本でローマカトリック教会・ジェスイット教会のコイデ神父が婚姻を司ったことも含めて彼らの果たした役割が記述されている。123人の女性にそれぞれの男性および子供たちは4隻の船舶で日本に移動、到着、その後生活を始めたが東京でのオランダ軍事ミッションの反応についても述べられている。

このミッションの施策を分析すると日本に渡った彼らの生活が如何に困難にみちたものだったかが理解できる。 そんな状況下で女性たちが再度蘭領インドネシアに戻りたいと希望した場合どのような援助が可能だったかについて述べられる。 1947年にはかなりの数の女性がインドネシアに戻り同時にかなりの数の女性も日本に滞在している。 その正確な数字は把握できていない。 そしてそれぞれの名前も確かめられてはいない。

国籍が問題だった。 日本に帰化したのかそれともオランダ国籍のままか、それとも二重国籍が可能だったのか。 そして子供の国籍も確かではない。 本書ではオランダ国法の下での調査がなされている。 1943年には重要な決定がなされている。 本書ではその決定に当たり日本国政府からオランダ法について情報の要請があったことが明らかにされている。 この事実については戦後から最近にいたるまで知られないままの状態に置かれていた。

本書では日本に滞在していた何人かの女性たちの個人的な経験について述べられており、また何人かのインドネシアに戻った女性たちのことについても述べられている。 それに和歌山県田辺港まで一行を先導した船旅の責任者やジャワにおける日本軍士官だったミヤモト氏の証言、コイデ牧師の九州での晩年ついて、東京近辺の受け入れ施設である Melati Dormitory  の所長についての叙述、 ジャワでの士官 オーバ・サダオ氏や旧軍人の降伏から引き上げ時期に於いてインドネシア・ヨーロッパ系女性でバタビア・ジャカルタの「フローレンス・ナイチンゲール」と呼ばれた人物についての叙述等々が明らかになっている。

約7万人のインドネシア・ヨーロッパ系の女性が占領時代に収容所外で生活していた。 日本人及び英国人は1945年8月15日以降インドネシア独立の敏速な運動の影響を強く受けることになる。 当時の状況、日本人のこの間の冒険譚、バタビア、バンドン、中央・東ジャワに於ける革命軍の若者が数多くのインドネシア・ヨーロッパ系の女・子供を含む人々をベルシャップと呼ばれる時期に殺害している事実についても述べられている。

スラバヤにおける戦闘の話は一人の母親とその7人の娘たち子供たちのインドネシア人家族の歴史として語られる。 或る少年は1945年当時8歳だった。 かれの回想の記述に依れば如何にかれがこのベシャップの期間を生き延びることが出来たか理解できるだろう。 彼とその母親は戦闘の前線から英国軍によって救出されたけれど祖母や伯母、その赤子たちなどの家族は捕獲されインドネシア共和国軍の収容所に監禁されている。 その赤子のなかには日本人との混血児も含まれていた。 若い母親の記憶からはそれ以上何も浮上してこない。

日本人との混血児をもつジャワに残っていた母親たちにとって残されていたのはオランダに渡る途のみだった。 インドネシア社会では日本人との親密な関係があった事実は禁句となった。 そのうちこれら「日・印」の子供たちは互いに接触をもつようになる。 1983年には接触グループが結成されそこから1991年には協会JINが設立される。 本書は当協会設立後の社会からの反応及び更なる活動について、ことに日本人の父親捜しの活動については日本政府の日本訪問プログラムに並行して簡潔に述べられている。

本書は全編を通じて数多くの、或る人々には既に知られた事柄に加え、今まで語られてこなかった母親たちや彼女たちの混血児である子供たちから語られた多くの新事実が掲載されている。 本書の終章は1946年当時赤子であったシェリーと彼女の母親が日本に移住し、11歳の時母親の離婚に伴いオランダに移り1983年にヒデコと出会い、そこで最初の接触グループを結成、1994年に血のつながった父親捜索を始めた話で結ばれる。 この旅路は山形テレビのドキュメンタリーとしてジャワや日本の地でシェリーや彼女の母親の過去が浮き彫りになる。 そしてこの物語が結果するものは悲劇的である。

写真について

表紙及び18ページ  名古屋到着

76頁        J.B.D. Pennink 氏 (1950年)

142頁       1949年、終戦後家族が再会、中央がムースお婆さん、母サス、

ヒデコ(前から二列目、左から二人目)

146頁       サスの肖像 1943年 スラバヤにて

150頁       柔道をするヒデコ、1956年

152頁       ヒデコとその父  1995年、 この三か月後父逝去

155頁       サスとひ孫、 2009年、この二か月後逝去

161頁       ヒデコ  1989年

169頁       サトウ氏とフレダ及びJIN会員

174頁       協会JINに招待され名誉会員となった内山馨氏、1999年

左からフレダ、内山氏、ジョイス、マサコ

181頁       1999年のJINグループ写真

187頁       シェリー、 1989年

裏写真        ハン・ヒースケ、1945年ライデン市に生まれる。

アムステルダム市の政策職員、および法律家として勤務、

定年後は蘭領インドネシア、日本人・インドネシア人の間に生まれ

た子供たち及び日本占領時代の歴史を研究

(Hierboven) VIDEO IMPRESSIE van het 25 jarig jubileum van de vereniging JIN op 1 mei 2016 in Kumpulan Bronbeek in Arnhem (video van Ernst de Groot)

見つかりません

リクエストされたアーカイブには何も見つかりませんでした。検索すれば関連投稿が見つかるかもしれません。