[:nl]20131110_061139_resizedDolf overleed op 22 maart 2009 en Hiroshi op 24 juli van dat jaar.

Ze waren vrienden geworden in Mizumaki waar het Kruis Monument is opgericht ter herdenking van de 871 in Japan omgekomen Nederlandse dwangarbeiders.

In het JIN blad van 2009 verschenen artikelen ter nagedachtenis. Met name Dolf Winkler, stichter van EKNJ, was voor de JIN leden van grote betekenis omdat hij ze liet meereizen naar Japan.

Zie voor het artikel over Kurokawa deze link: 2HIROSHI KUROKAWA

20131110_060700_resizedEn voor Dolf Winkler deze link:

 2DOLF WINKLER

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[:en]20131110_061139_resizedDolf passed away on March 22, 2009 and Hiroshi on July, 24 of that same year.

They had become friends in Mizumaki where the Cross Monument was founded in commemoration of 871 in Japan perished Dutch slave labourers.

In the JIN Magazine in 2009 appeared obituaries. Especially Dolf Winkler, founder of EKNJ, had a big significance for JIN members because he allowed JIN members to take part in his group of Japan travellers (ex prisoners of war and their descendants) at the time in 1997 nobody else would help Japanese Dutch descendants.

See this link for the article about Kurokawa:  2HIROSHI KUROKAWA

20131110_060700_resizedAnd for Dolf here:  2DOLF WINKLER

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[:ja]20131110_061139_resized

黒河博を追悼する

水巻の平和と文化を育む会の会長、黒河博氏が2009年7月24日に亡くなったことに対して、私たちは深い悲しみを覚えました。謹んで彼に追悼の意を示したいと思います。この写真で、彼が十字架の塔の前に立っている姿が見えます。この十字架の塔の名盤には、日本全国で亡くなった871人のオランダ人捕虜の名前が刻まれています。水巻町に住んでいた黒河博氏は、1985年に水巻を訪れていたドルフ・ウインクラ氏のことを、ニュースで知りました。黒河さんの言葉では:「ウインクラさんが水巻の収容所にいたことを知っていたが、そこで捕虜がそんなにひどい状況に置かれたことは知らなかった。ウインクラさんの目を見たら、彼がどんなに苦しんだのかが分かった。そこで、彼が気持ちの整理を求めている理由も分かった。」黒河さんのコメントはwww.vriendenvanjapan.nlのサイトから引用しました。このサイトは、水巻町とウインクラさんの故郷、オランダのエメロード市の間の平和と友情の輪を描いています。そのサイトにもう一つのコメント:「黒河氏の努力のおかげで、水巻町の行政が半年後、十字架の塔を修復するための予算を組んだ。黒河氏は最初の献花式を計画し、ドルフ・ウインクラ氏を紹介した黒河さんいわく:「この献花式は、彼のためにできたせめてもの報いでした。その最初の献花式が、その後長年に渡ったオランダと水巻町の友情関係に導くと夢にも思わなかった。

黒河氏と彼の兄弟、あるいは黒河一家の全員が、毎年、献花式を準備してくれました。彼はボランティアの会を作りました:十字架の墓標・平和と文化を育む会。黒河さんは献花式の大切さを自分の目ではっきり見ました。「最初の頃の献花式の雰囲気は非常に重かった。来日しているオランダ人はまだ、日本人に対して憎しみの気持ちを持ち、私たちと信頼関係がまだできていなかった。しかし、何年か経つと、雰囲気がよくなり、信頼関係もできた。」

水巻町のウエブサイトに、十字架の塔の暦が英語と日本語で説明されています。(www.town.mizumaki.lg.jp

1995年に、JIN会と黒河氏は公式に始めて知合いました。JINの会員、ディック・ボデンスタッフはEKNJと一緒に日本を訪れ、同時にヒデコ・ヒースケはJINの理事として来日し、水巻で黒河さんと出会いました。水巻での献花式で、JIN会は始めて黒河氏の挨拶で歓迎の言葉を頂きました。黒河さんをはじめ、JINの会員であるフレダさんの日本人の父、佐藤さん、そしてジェラード・サレミンク神父の協力のおかげで、JIN会が日本の訪問に参加する許可を得ました。その時、ヒデコは今後、JINの会員の日本人の父を捜索活動に取り組む内山氏と出会いました。1996~2005年にわたった内山さんの努力のおかげで、大勢のJINメンバーが日本の家族のことを知ることができました。

1997年以来、EKNJの日本訪問は日本政府によって支援されました。素晴らしいことに、JIN会も、日本訪問に参加できました。1997年から、毎年水巻を訪れる機会を得て、JIN会のほぼ全員が、黒河博さんに会うことができました。JINのメンバーは彼のことを懐かしく思い出しています。彼は時々少し大人しく、時々真面目、そして時々非常に愉快で、エネルギーに溢れていました。EKNJ、そしてJIN会のために、彼はいつも最善を尽くした最高の友達でした。弟と共に彼がオランダを訪問した時、黒河さんはまるでJIN会員のタカノリ・フーケと兄弟のように付き合っていました。タカノリは黒河兄弟にアムステルダムの隅々まで案内しました。JIN会も、黒河さんのために特別な一日のプログラムを計画しました。彼はオランダの旅行を多いに楽しみました。そして2002年から、櫻会も日本訪問を始めて参加できた時から、その会員も、黒河さんの暖かいおもてなしを経験できました。日本とオランダの架け橋になった黒河さんは、同じ目的を持つ二つの団体、JINと櫻が、一緒に協力することを望んでいました。数年間、葉子ハイスさんは両方の組織のために彼とコンタクトを取り、黒河さんが病気になった時期から、彼へ私たちからのニュースや励みの言葉、プレゼントなどを渡すことができました。彼にとって、それは大きな励みになったようです。

今になって、十字架の塔での献花式や水巻との交流は当たり前のことになっていますが、最初はそうではなかったです。最初の時、黒河さんとウインクラさんが見せてくれた辛抱と勇気は必要でした。2000年に出た日本の新聞に、こう書いてありました:「黒河氏はまだ、ウインクラさんの固い表情をはっきり覚えていた。その固い表情が笑顔になるまで、3年間ぐらいかかった。ウインクラさんがまだ覚えている一つの日本語の表現は、‘早く来い!’それを考えると、彼はどんなに辛い経験があったか、よく分かる。」黒河さんがさらにこう述べた:「献花式はいいことですが、人間と人間のコミュニケーションも重要です。私たちは一緒に食べたり飲んだりすると、本心が出る。その時、最初の日の堅い表情は笑顔に変わる。」

水巻の町長、とりわけ田中博幸氏の役割を忘れてはなりません。田中前町長はいつも私たちの訪問に協力し、さらに日蘭関係の400周年のため、オランダの戦争資料館、NIODが計画した戦争の展示会を2000年に、水巻図書館での開催を実現して下さいました。

黒河さんと田中さんは、私たちからの尊敬と感嘆の証として、オランダの女王から勲章をもらいましたし、日本のテレビ局は黒河さんを描く様々な放送を作りました。彼らは戦争の歴史に直面し、その歴史を乗り越える活動を続けました。2003年4月23日のオランダ新聞、デ・ヴォルクスクラント誌に、こう書いていました:「東京で、二人の日本人がオランダの勲章を受章した。水巻町町長、田中博幸氏と水巻町の町民、黒河博氏は、日本とオランダ関係の改善のため、オランダのオラニャ・ナッサウの勲章を受けた。彼らは水巻を訪れる戦争の経験者、犠牲者のために全力を尽くした偉大な人物です。」

Dolf overleed op 22 maart 2009 en Hiroshi op 24 juli van dat jaar.

Ze waren vrienden geworden in Mizumaki waar het Kruis Monument is opgericht ter herdenking van de 871 in Japan omgekomen Nederlandse dwangarbeiders.

In het JIN blad van 2009 verschenen artikelen ter nagedachtenis. Met name Dolf Winkler, stichter van EKNJ, was voor de JIN leden van grote betekenis omdat hij ze liet meereizen naar Japan.

Zie voor het artikel over Kurokawa deze link: 2HIROSHI KUROKAWA

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